人類最初の太平洋無着陸横断の記録〜 No.4

取り返しのつかない遅れ
翌朝早くそこを出発しクロイドンに着陸した。パングボーンとしてはすでに遅れていることもあり、給油だけしてすぐに出発したかった。しかしハーンドーンの親戚が飛行機を見に現れ、世界記録に挑戦しているにもかかわらず、ハーンドーンを車に乗せて食事に連れて行ってしまった。パングボーンにとっては、ただただ大事な時間が過ぎてゆくばかりだった。最終的に決断してハーンドーンをおいて出発しようとエンジンをかけ、タキシングしはじめたところになんとハーンドーンが戻ってきた。ここまででもハーンドーンのおろかな行動で相当の遅れが生じていた。その後ロンドン、ベルリン、モスクワと通過していったが、モスクワを発ちシベリアをめざしていたころ、既にポスト・ガッティの記録から10時間余り遅れていた。シベリア上空でパングボーンが仮眠している間、ハーンドーンが機体を操縦していたがまたまた飛行ルートを見失い、モンゴルの小さな村に着陸した。なんとか元のルートに戻してハバロフスクまでたどり着き、激しい雨の中強行着陸した。このとき車輪が雨でぬかるんだ滑走路に深くはいってしまい、そこからの引き上げや車輪の修理などに、さらに時間をとられてしまった。そして天候の回復を待つあいだにポスト・ガッティの記録から27時間余りも遅れてしまった。この時点で27時間の遅れを取り戻すのは最早できないと、残念無念であったがあきらめざるを得なかった。

絶望と新たなる挑戦
世界一周速度記録更新の夢は絶たれたが、彼らは日本の朝日新聞社が25,000ドルの懸賞を出していた、人類初の日本からアメリカまでの太平洋無着陸横断飛行に挑戦できないかと考えた。ニューヨークのオフィスに適正な着陸許可を得るためのアレンジを打電し、ジャパンタイムスの誘導の元、天候が回復したのを確認してハバロフスクから東京へ向けて出発した。ハバロフスクから北海道の上空を通過したときに、ハーンドーンはスチルカメラと16mmのビデオカメラで、なんということか北海道北部を撮影していた。誤って開業前の羽田にいったん着陸したが、その後すぐに立川に降り立った。入国のための書類不充分と日本北部の軍施設の写真を撮ったとされ機体と身柄を拘束された。幾度かの外交交渉と警察による徹底的な事情徴収の後、パングボーンとハーンドーンは1,025ドルづつの罰金を科され、1931年9月2日やっと釈放された。日本政府は不本意ながら二人に太平洋横断飛行の許可を与えたが、一回の離陸のみしか許可せず、また機体の改造もまかりならないとされた。もし最初の離陸に失敗したり、また離陸後戻らなければならないことが起きた場合には、ベランカを没収するとパングボーンに通告した。


BACK   NEXT

ページトップへ