人類最初の太平洋無着陸横断の記録〜 No.6

旅立ちの朝

天候について青森の三沢にいる PANG BORN に送られた1931年9月30日付の電報。(小比類巻ヨージ氏の名前や青森県三沢村電報局の受付印がみえる。)
天候がクリアになった日本時間10月4日の朝、漸く歴史的なフライトをスタートできることとなった。このとき東京から同行したアメリカ人二人から、フライドチキンと熱いお茶を渡された。さらに三沢村の子供からりんご5個を手渡された。メーカーの仕様やテストスペックを遙かに超える915ガロンの燃料と、45ガロンのオイルを積んだ総重量8,920ポンドの大きなベランカは、エンジン回転をフルにして、尾輪を杭につなげたワイヤーを切ると同時に、滑走路の坂をすべり下りた。しかしながら滑走路を過ぎても飛び上がることがなかなかできず、海岸の砂地を跳ねながら海岸線手前まで走りつづけた。一回しか許されなかった離陸を失敗することは全てを失うことであり、パングボーンの必死の思いが通じたか、わずかに海岸線から約180メートル手前でやっと車輪が地面を離れた。1分間に数フィートではあったが少しづつ高度を稼ぎながら、機首を計算どおりアリューシャン列島の方向へ向けた。

ランディングギアの取り外し
淋代海岸を離れて約3時間後、パングボーンは抵抗を減らす為、ワイヤーを引き、車輪を止めていたピンをはずして車輪を落とした。車輪はうまく海に落ちたが、脚支柱は落ちなかった。この脚支柱が残っていては胴体着陸が不可能になるため、どうしてもはずさなくてはならなかった。フライトの途中でパングボーンは、ハーンドーンに操縦をまかせ機体の外に出た。北太平洋の氷で覆われた、冷たい海の14,000フィート上空で、主翼ストラットにつかまりながら両側の脚支柱を外した。過去の曲芸飛行(wing walker)の経験が、ここでも生かされることになった。飛行途中でのハーンドーンの主な役割は、胴体下部に積んだ補助タンクからメインタンクへ、ハンドポンプで燃料を送るというものであったが、ハーンドーンは2回もそのことを忘れ、一回目はエンジンが止まる寸前に燃料を補給できたが、2回目は完全にエンジンがストップしてしまった。パングボーンは14,000フィートから機体を急降下させ、プロペラを空転させてエンジンをかけなおした。睡眠をまったくしないまま20時間、30時間と飛行する中、激しい睡魔に襲われて、アラスカ湾の荒れ狂う波しぶきが、機体にかかるほど高度が落ちたこともたびたびであった。


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