人類最初の太平洋無着陸横断の記録〜 No.7

いよいよアメリカ大陸へ
アラスカ湾の厳しい寒さとの戦いを乗り越えて、パングボーンは"ミス・ビードル"をアメリカ本土に向けて飛ばした。彼のモチベーションとして、朝日新聞の賞金25,000ドル以外にもTexasのB.Eastwoodがかけた東京―テキサス横断飛行の賞金25,000ドル(後になって対象外とされている。)、そしてシアトル市の東京―シアトル無着陸飛行にかけられた、25,000ドルの賞金があった。(これも後になって解ったことだがシアトル市の賞金は、東京の50マイル以内から離陸して、シアトルの10マイル以内に着陸しなければならないという条件がつけられていた。)また彼が日本にいたときに知ったことだが、彼がニューヨークを出発する前に急いでいたため、確認せずにサインしたATW社との契約では、受け取った賞金から、ハーンドーンが飛行のために使った全ての費用を払った残りだけが、パングボーンに渡されるという極めて不利なものだった。米国に近づくにつれて、パングボーンは早く着陸して着陸装置を修理した上、まずはテキサスへとび、そしてニューヨークに到達して、世界一周を成し遂げたいという思いに駆られ始めていた。そのためにはパングボーン自身が睡眠不足を解消して、胴体着陸をうまくやり、破損をできる限り少なくする必要があった。そこでハーンドーンに高度と方向を一定に保つことを伝え、操縦を任せた。そして最初にみえる街の明かりが、バンクーバーのはずだと教えてほんの少し仮眠を取る事にした。

奇跡の胴体着陸
しばらくの後、ハーンドーンに起こされたときには、バンクーバーはおろかシアトルも過ぎ、レイニア火山の1000フィート上空を飛んでいた。1931年10月5日朝2時ころであった。パングボーンは飛行計画の見直しをすぐさま行い、アイダホのボイスという町に着陸しようとして向かった。アイダホには、彼が卒業した大学もあり知らないところではなかった。またニューヨークを飛び立つ際に、先にイスタンブールに向かったボードマン・ポランドの飛行記録も打ち負かせると考えた。しかしボイスは深い霧に覆われていた。ボイスを諦め西へ引き返し、スポケーンへと向かった。しかしここも霧が深く着陸不可能であった。さらに西のパスコは厚い雲に覆われており、全く着陸は不可能であった。翼は凍り付き、さらに燃料も40時間の飛行でかなり減少していたこともあり、パングボーンは最終的に、ウェナッチに着陸しようと決心した。


胴体着陸直後のワンシーン

彼はウェナッチをよく知っていたし、霧が無いことも分かっていた。彼の母親と兄弟がウェナッチにおり、歓迎してくれるに違いなかった。実際にアマチュア無線や新聞のニュースなどで、アリューシャン列島上空を通過し米国本土に近づきつつあるという情報を知って、人々は凍てつくような夜中にもかかわらず、ウエナッチの丘の上にある小さな飛行場に集まっていた。その中にはもちろんパングボーンの母親のオパール、弟パーシーやいとこ、そして朝日新聞の記者を含むニュースレポーターたちもいた。1931年10月5日の朝7時14分を過ぎ、オレンジカラーのベランカは、ウェナッチ東部の丘の上を低空飛行し、障害物がないか地上を確認した後、胴体着陸にトライした。機体スピードを失速するくらいまで下げ、滑走路の端に入ったとき、パングボーンはエンジンスイッチを切った。プロペラを水平位置で止めようとしたが、不幸にも垂直位置でとまってしまった。彼は機首をアップさせて胴体を滑らせた。土煙を上げてつんのめるようにしてテールエンドが持ち上がったが、また後ろに倒れ左翼を地面にこすって機体は止まった。機体の損傷の少なさを考えると、ほとんど完璧な胴体着陸であった。淋代海岸を飛び立ってから実に41時間15分を経過していた。パングボーンとハンドーンは、約5500マイルのノンストップ太平洋横断に成功したのである。ハーンドーンに続いてパングボーンが機体から出てきた。ハーンドーンは着陸の際、機内にあったオイル缶を顔にぶつけ、右目の端から血が出ていた。ハンカチでそれを抑えながら、パングボーンや家族と対面した。


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